泡立つ朝のミルク インドの旅から
(前回からの続き)
前回、2年の入院のあと追い出されるようにして退院したと書いたが、実際に入院生活が耐えがたく、いろいろな騒ぎを起こした挙句、「うちにいてもらっては困る」という主治医の言い渡しで追い出されたのである。
耐えがたいのは、先が見えないということだった。二年近くたっても治療方針はそれまでと同じく、副作用の強い薬を飲むこと。「治る」という言葉は、ついに引き出すことはできなかった。二年入院しても治る病気ではない、という宣言を受けたようなものだ。
病棟には十年二十年と入退院を繰り返しながら、すっかり浮世離れしてしまった人たちが大勢いた。そういう人たちが世間から見れば幽霊のように不気味に見えたのだろうし、子供のころのぼくは、精神病院の患者を社会から見放された、人間の成れの果てのように思っていた。
しかしじっさいには、そんな仲間たちこそが、ぼくを最も温かく迎え支えてくれたのだった。どん底を体験した人のみが持ちうる、脱力したようなやさしさが彼らにはあった。そういったやさしさは、競争社会の厳しさの中ではたんなる弱さとしてかき消されてしまうのかもしれない。
しかし「底をついた」弱さにからは、しなやかさが感じられた。ただ側にいるだけで安らぐような存在感のある人がたくさんいた。そういう人に接することで、ぼくはたぶん強さではなく、根本的な「ただ在る」という生き方を学んだのだと思う。
AA(アルコール依存症の回復者の会)のミーティングでは、「自分は万策尽きて無力である」という宣言を大切にしている。無力になりきったとき、そこからかもし出されてくる凄みのようなもの、ただ生きているという、裸の状態が立ち上がってくる。うまく言えないが、そういう人にたくさん出会った。
そういった出会いの支えと同時に、入院時からどうにもやるせない気持ちそのままに、ぼくは表現することを始めていた。とうていアートと呼べるような質のものではないが、それらは生への欲望がむき出しになった叫びのような絵画や、歌や、詩だった。作りたいというよりも、作らずには生きていかれないという必死の気持ちがあった。
大量の紙に書きつけたそのころの絵や言葉が今でも残っている。作った歌とギターを持って新宿駅まで行き、街頭でよく歌った。その歌も叫びだった。
ぼくは、薬や治療という形で受け取り続けることに倦んでいたのだ。ぼくが謳いあげたのは、もう人からいいようにされるのはこりごりだ、自分のことは自分の好きなようにやろうという宣言だった。
じっさい、二年もかかってよくならない病気を、そのまま人任せにしても先が見えない。ぼくは歌い出すことで、(そう意識してはいなかったが)自己治療の道を一歩踏み出した。ギターや、筆や、ペンを持つことで、ぼくは自分の人生を描きなおそうとしていたのだと思う。
事実、そうやってぼくは人生を取り戻していった。精神病患者という枠の中から、あらゆる自分でありうる可能性に向かって。
ときを同じくして、薬の副作用も耐え難いものとなっていた。作用よりも副作用のほうが大きな場合、薬を飲むことはかえって害である。当時はとくに優れた新薬が少なく、(とくに入院中の)患者は自分に合わない薬でも必要悪として飲まなければならない場合があった。この薬は下血しても飲みなさい、とあるとき医者に言われ、病気のほうがはるかに楽だと思った。
こうしてぼくは、おとなしく治療に従い続けるよりも、「青空の下で病気を謳歌する」道を選んだ。それは、病気を心配することから、自分の人生そのものへ関心をシフトした瞬間でもある。
第一段階ではだれしも病気を何とかすることにエネルギーの大半を割く。しかし次の段階では、病気を持ちつつもどう生きるのか? が問わければならない。言葉を換えれば、病気をどう手なずけたらそれが人生の障害にならずにすむのか、という「コーピング」の段階に入ったと言えるだろう。