ある日、これは精神科の話だが、退院して、デイケア(社会復帰のために、作業や人間関係などを練習する場、多くは病院などに設けられている)、社会福祉施設や作業所、一般の就労へ、という階段を上っていくのが回復とされているが、現実にはなかなかそうはいかない、という話が出た。だいたいどこかの段階にとどまるか、戻ることもあるという原状からだ。
いったん「上の段階」へ進むと、以前の人間関係は、なにか後退するような気がして遠ざかりがちという話も。たしかに、ぼくもそういう覚えはある。だが、かつての病院仲間、しかも2年近くも部屋を同じくした仲間に奇跡的に再会し、かつてと今の苦労を時々話し合うようになってから、彼にしか話せないような、ぼく自身の苦しかったが真実の体験が思い起こされて、それゆえに今があることを再確認している。彼はそんな「戦友」のような間柄である。
「ナチュラル」の場で共有されている話も、それに近いものを感じる。もちろん初めての人もあり、体験もそれぞれ違うので、すべてというわけではない。けれども、どこでも話せるわけではない、心の深い苦しみを受け止めてもらえる場は、まったく同じ体験をしたわけでなくても、共感によって、支えてもらえたという実感がある。何よりぼく自身がそう感じる。
そこには上も下もない、ただ、お互いに悩みを抱えなおかつ生きていく仲間がいる。その部屋までやってきて、出会えただけでもほっとする。それは、競争で相手をしのごうとする外の社会と違って、弱いままのお互いをふわっとしたクッションで受け止めあう、場である。
その安心感と支えがあってはじめて、自分の問題を見つめる力も湧いてくる。階段をひたすら上るのが、ただでさえ困難な人たちがここには集っている。そんな右肩上がりの成長から降りたからこそ、見えてくるあり方もある。それは上を見上げることよりも、深みを見つめることであるようだ。
この弱き、小さなものたちの週に一回の集いは、自然と、自分という井戸の底に映る風景を見つめるような時を持っている。それぞれが人の話を聴きながら、自分にも思い当たる感慨を抱くことがある。そのとき、ぼくたちの井戸は、じつは地下水脈でつながっているのだ。そのことをどこかで、察しているから、こうして集まっているのかもしれない。