2007年09月14日

壊れたままで、光っている

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ずっと前、江ノ島水族館に行ったとき、地階に降りたところの薄暗い展示室に虹色に光るくらげがいた。
姿かたちはホタルブクロのような釣鐘型で、開口部の端がひらひらしながら光っている。その光も、次々と変化していき、いのちの呼吸がそのまま光になって表れる様に見とれて、しばらく水槽の前にいた。

そのなかに、ひとつだけ、痛々しくも傘が大きく壊れてしまい、漂うのも不自由そうなくらげがいた。残った縁の部分だけ光っている。壊れていても光っている。それが不思議で、いつまでもそこから離れられず、戻ってはまた見入っていた。

週に一度、厚木のフリースペースに集まってくる仲間たちは、それぞれに心の病やいきづらさに悩みながらも、やってくる。なぜ来たいと思うのかと尋ねたことがある。ほかでは話せない自分の悩みを批判されずに聴いてもらえるから、人の話を聴いているだけでも共感できることがあるから、と答える人が多かった。

人になかなか打ち明けられず、言ってみてもまともには聴いてもらえない、そういう痛い体験をよく聞かされる。病気を抱えた当事者に限らず、一般社会でも、よく聞く話だ。ただうなずきながら聞いてもらえるだけで、ずいぶん気持ちは楽になる。とてもシンプルなことだが、そんな場が見つからない、という人は多い。

自分たちを「壊れ者」と呼ぶ人たちがいる。去年からことあるたびに足を運んだ、「壊れ者の祭典」の参加者たちである。この呼称には賛否両論あったというが、心や体の病気や障害を持つ身を、積極的に自分のほうから「壊れ者」と呼びながら、自虐の一片も見当たらず、むしろ肯定感と諧謔味さえ漂うので、ぼくはこの名が好きだ。

今、壊れ者の祭典に、行きづらさ、息苦しさを切実に感じる多くの人たちが通ってくる。とくに医療を受けていなくても、その人たちの心も、ある部分「壊れて」いる。ここで壊れているというのは、決して欠けているという意味ではないことを強調しておきたい。むしろ「もともとの形が砕かれて、変容している」というようなありようだ。

違った角度から見れば、それは精神的な殻という社会的な防御が崩れた状態でもある。その防御壁の一部が崩れ始めると、人間関係の距離が取りづらくなったり、境界線が引きにくくなったり、とても生きづらくなる。しかしそうした壁のない状態で出会う機会も、人はまた必要としていると思うのだ。

教育やしつけで整えられた形が崩れ、社会の水の中で泳ぎづらくなった人たちが、あちこちに集まりをもち始めている。行く場がないなら自分たちで作ろう、という人たちもいる。そんな場にいて関係性を育てていき、弱った気持ちを休め、緊張がほどけていくにつれて、ある人がほとんど無くしてしまっているかに見えた持ち味が輝きだすことがある。

必ずしも傷害や苦しさが消え去ったわけでなくても、自分の言葉で語りそれが受け止められたとき、その輝きは増すようだ。一般社会のなかでの生きにくさが変わらない人でも、その人がいるから場が支えられている、という場合もある。何が持ち味なのか、人は置かれる場所によって大きく変わる。社会のどんな場所でも通用する必要はない。

何かが砕かれたとき、そのままの姿で光ることのできる場所は必ずあるし、姿を整えて群れに加わらなくても、壊れた形がいいね、と受け止めてくれる仲間もいるのだから。

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