2005年11月02日

うつ日記-その3

2005.11.02

 時間だけはたっぷりある。しかし作業能力はふだんの三分の一である。一般社会の三分の一のスピードで生きてみると、違ったふうにみえてくる。自分が遅すぎるんだと思わなければいい。違う見え方を楽しもう。

 あくせく忙しいという人が多い。忙しくて、、が挨拶として交わされる国はそうは多くはないのではないか。さらに、それがちょっと自慢であったり褒め言葉であったりする。

 スローライフという言葉がもてはやされるくらいだから、本当はゆっくりのんびり生きたいのではないか? でも、そうすると、人生は充実しないような気がしてくる。そこで、現役のうちはどうしてもフル回転で働いたり遊んだり、そういう目一杯の状態こそ、充実というものだと思わざるを得なくなる。

 しかし病気となると別である。病気とは、そういう世の中の流れから外れることのできる、特権的な状態である。それでも、お見舞いにきた人に「早く良くなってね」なんていわれると、ああ、この人は自分の生きている社会のペースを病室にまで持ち込もうとしている、と思ってしまう。ぼくは小さいころから入院ばかりしてきたので、そういうことはよくあった。

 もちろんそう言って下さるのはのはまぎれもなく善意なのだ。しかし、無知な善意は容赦がない。死にかけている人にがんばって、もない。不治の病の人に、きっと良くなるからという気休めもしらじらしい。人の生きるペースはそれぞれ違う。死ぬペースも違う。それがその経過を順調にたどるべくしてたどっていくのがいいと思う。またそのためのサポートがほしい。

 いちばん始末におえないのが、自分自身が自分を早く社会のレールに戻そうとせき立てることだ。これが焦りである。この世界は単一の基準にもとづいて運行しており、それにもとづいて生きなければいけないのだという思い込みだ。親が教え、学校が教え、職場が教え、自分が自分に教えてきたことである。

 せっかく病気になって、それに合わせなくていい状態で、じっくりと脱教育化できる時間を与えられながら、自らそれを放り出すとはなんともったいないことだろう。

 精神病になると、なりたてのころは、まわりからも、怠け病だ、気のせいだ、もっときあいをいれてやってみろなんて、励まされてしまう。その気になってがんばってはみるけれど、病気なのでうまくいかない、自己嫌悪や被害妄想はどんどん強くなっていく。その挙げ句がいきづまって自殺に走ることになったりする。

 おそらく怠けられない人たちは、怠けてるように見える人間をやっかむのであろう。努力でもって生きてきた人たちは、努力すれば乗り越えられるはずだと思うのであろう。それで解決することもあるだろうが、そうもいかないので津々浦々まで複雑怪奇な艱難辛苦が跳梁跋扈しているのだ。

 いけない、いけない、、、うつの時にはマッサージをしてもらうのがいい。幸いぼくのパートナーの仕事の一部にマッサージがあるので、おとといの夜してもらったら、背中の中央部に怒りのしこりがあるといわれた。確かに、それを感じる。そこをゆるめていくのに、時間がかかる。

 今朝は起きられるのにわざと起きないで、いろいろな夢をみた。うちに白壁があって、そこに反映する富士山の像がとても鮮明に見え、斜面でキャンプする人の折り畳みのテーブルの上においたコーヒーカップの縁までがくっきりと映っているのだった。

 体は相変わらず重く、考えはまとまらない。外は晴れてとてもあたたかい。思考が散漫になっている分、感覚的なものがうねりのように大きく感じられる。薬をどの程度飲もうか、まだ迷っている。仕事をしなければ、今のようなスローさでもいっこうにかまわず、試験を控えているとはいえ、模擬試験である。人に会うことだけは、まだ抵抗があるようだ。


posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼくのうつ日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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