2005年11月11日

うつ日記 その10

反映

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2005.11.11
 当地に引っ越してきて、今日はちょうど一年目の記念日。引っ越しそのものが、大変ないきさつをへて実現したのだが、この一年間も数えきれないほど多くのことが起こった、、、そしていま大変化。

 何より自分をケアすることが、今一番の仕事である。仕事に行くことができず、ずいぶん苦しんだが、そして仕事をすることが患者さんをはじめ、この社会への手助けになると思っていたが、いまは自分を癒すことが実は一番役にたつ仕事なのだ。

 昨日患者さんたちと接していて、ようやく彼らに支えられながら夕方まで仕事が続けられたのだが、今はとりわけパワフルな彼らと接するのは無理と思われた。夕飯を食べてばったりと倒れこみ、そのまま12時間近くも寝てしまう。

 もともと自分がしたくてはじめた仕事だ。何の義務もない。休める時には休もう。これを天職と思い、非常勤だけれどエネルギーを注ぎ込みできる限りのことをしてきたけれど、そういう気張りかたが無理を呼んだことも確かだ。自分の自由で選んでしたことは、自由にできなければ意味がない。

 のびのび自由にするために、今は休む。病院という、とりわけソリッドな組織でその自由さを保つことは難しいなぁと感じていた。4年前に勤めはじめたころから、いつクビになってもいいと、フリーミーティングをしたり、ひとりひとりのポートレートスケッチをしたり、病棟流しをしたり、気の会う患者さんとは退院後もつきあいを深めたり、やりたいことをやってきた。これからも、勤めている限りはそうするつもりだ。

 でも、ひとりではずれたことをしているのはそろそろ限界かなと思う。つながりをつけようと、他の職員にも働きかけたが、心ある人がやめてしまったり、長年勤めた人はリスクを侵せない。ぼくのような渡世人は、病院というような堅気の世界にはあまり見かけないのだ。

 ぼくがめざすのは、健常者障害者ともに安らげる場づくりである。そこでは誰もが肩の荷を降ろし、自分自身でいられるし、そうしてもとがめられることはない。指図を受けず、なりたい自分になるためのサポートをお互いにしあう。

 病院ではあれこれと管理され、とくに精神病者は子供扱いされ、なかなか一人前には扱ってもらえない。半人前でも十分の一人前でも、まったきひとりの存在だということが、受け入れてもらえる場所が、ぼくも切実に欲しいし、作らねばと思うのだ。

 昨日は勤務中にも、希思念虜が頭をもたげてきて仕方がないので、プログラムの待ち時間のあいだ、「死にたくなる気持」について患者さんたちと話した。というか、相談に乗ってもらったのだが。彼らは、ぼくが職員であるにも関わらず、というか、当然のように親身になって聴いてくれ、自分の体験も話してくれる。

 手首の傷を見せあったりすると、親密感がわく。自殺はどんな方法でしたことがあるか、しかし今生きているのはどうしてかなど。そうした話は、これまでもしてきたけれど、それぞれの人の人生そのもののようにバラエティーがあって興味がつきない。そして、時をへたあとにそれらについて話すと、なぜか深刻さが消えて、ユーモアさえも感じられてしまうのだ。

 昨日は、自殺しようとして二階から飛び降りたという人があったが、それで死ねるわけないよ、甘過ぎるよーーとおおいに笑った。こんな話もあった。真冬に大量にアルコールを飲んで、雪の中で寝れば凍死できるだろうと寝てしまった。ふと気づくと犬がぺろぺろと顔を舐めている。しかも体には毛布がかけられている。近所の人が哀れに思ってそうしてくれたのだろうという。味のあるいい話だよねーと、他人事のように振り返った。

 他人事のように自分を振り替えれれば、きっと人にも落ち着いて語れるだろうし、自分も新しい自分としてとらえなおすように語ることができるだろう。

 今日11月11日は、世界平和記念日だという。全部1だし、ごろがいいので引っ越しの日に選んだ憶えがある。漢字で書けば、交互にプラスとマイナスだ。もしかして乾電池記念日?? すべてがバランスがとれ、ここから出発する日と思ってみてもいいだろう。そういうことにしようじゃないか。



posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼくのうつ日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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