2005年11月12日

うつ日記 その11

2005.11.12

 雨がちから曇りへ、そして晴れてあわてて洗濯をしている。晴れ曇りがあるように、人間の精神も気象である。また季節のめぐりもある。
 今を心の冬のまっただ中としてみれば、クローブやオレンジや砂糖をたっぷり入れたワインを温めて、暖炉のそばで飲んだウェールズの冬みたいに、すてきな過ごし方もあるだろう。

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フラックス(亜麻)の花 <2004.06.05>

 冬には冬にふさわしい過ごし方がある。暖かくして、活動はゆるやかに、内側を見つめながら静かに過ごす。そのあいだに、春までのエネルギーをゆっくり育んでいる。芽吹きがどこかにひっそり息づいている。

 昨日朝に、お腹にしこりが感じられ、パートナーにていねいに揉みほぐしてもらった。それは悲しみや寂しさのしこったもので、それがほぐれていくにつれて、涙がじんわりとにじんでくるのだった。からだのあちこちにわだかまった感情があり、それが楽に呼吸したがっているのが分かる。

 亡くなった友人の山尾三省の詩に、洗濯物を一枚一枚、ていねいにたたんでいくというのがあった。ぼくはそれが今でも好きだ。じつになんでもない一日のなんでもない風景だ。その詩を読むと彼がそこにいるのがありありと感じられるので、ちっとも死んでいる気がしない。さっき洗濯をしていて、その詩のことを思い出した。

 今日朝起きて意識がはっきりしてくるとともに、幸せになろう、とぼくは強く思った。このごろ息詰まるような気持になることが多かったので、そんな言葉が出てきたのかもしれない。

 そのあとしばらくして起きてきたパートナーが、ふとんのなかで不安な気持をいろいろ語りはじめた。それはぼくも体験してきているような、切実な気持だった。ふたりでいるということは、どんな体験もひとりじめにできないということだ。そうしようと思ったとたんに無理がくる。そして知らず知らずにぎくしゃくしはじめる。

 たとえそれがとても不安なことであっても、彼女がうつのぼくを気づかいつつも、話してくれてよかった。内容が不安に満ちていても、打ち明けて話してくれるその信頼が安心なのだ。そして、信頼は何よりの薬になる。

 ふたりで暮らしはじめて一年ちょうどになるが、慣れてくるとお互いの役割や相手に対する見方が固定しがちになる。相手はこうこうだから、、、と紋切り型の決めつけをしたくなってくる。そうして非常に狭くなった関係は窮屈だ。相手がそこからちょっとはみ出したら気にかかる。また、はみ出したい自分が抑えきれなくて、苦しくなったりする。

 自分自身に窮屈な枠づけをしていると、そうなりがちに思う。自分はこういう人間だから、という限定は自分を苦しくする。自分は一切何をしようと、しなくても自由だ。そう思ってみると、思っただけで、ずいぶんからだが楽になっているのに気づく。そんな時には相手にも自由さを無制限に許せる気持になっている。

 本当は許すも許さないもない。ぼくたちの自由さは無制限のものだ。どんなあり方があっても不思議じゃない。だから保障が欲しくなったり不安になったのもするのだが、そんな思いのあれこれも、相手に話してみれば、案外同じことを同時に抱えていたりする。今朝、彼女の言葉でそんなことに気づいた。同じだね、と思うと、またそこから始めることができる。

 だから、いつでもはじめたての気分でいよう。ぼくはまあ中年なのだが、こういう関係性についてはまったく成熟の兆しがない。ようやく、初めのとっかかりについたばかりだ。これから登っていく山があるのだろうか。

 あ、それから幸せになろう、と思ったことだけれど、人は幸せになろうと思った瞬間にそうなる。心を打ち明けて話すこと、思いがけなくも晴れ間が出てきて洗濯物が干せること、勉強で新しい知識を知ること。みんなすてきなことだ。

 うつになると、心がスローになり、細かいことばかりに気が行くので、かえって身の回りの幸せ感が味わえていい。これは冬の過ごし方のコツかもしれない。
 


posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼくのうつ日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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