2005年09月30日

歪んだままが、ありのまま

 今日は患者さんたちと、町の体育館に運動にいった。広いホールの半分を借り切って、卓球、バレー、バトミントンなどを試合を交えて行った。

 引き上げるときに、一般の利用者とちょうど入れ違いになる時間帯があり、患者さんたちと、その人たちとが並んで見えた。そのとき、"姿" という言葉でしか表しようがないような、ある感慨を持ったのである。

 ふだん病院内(精神科)では、職員と患者という二種類の人間がいて、その両者がそれぞれの役割を持ってその場に混在しているというふうに見る癖がついているので、患者さんは姿勢が大きく歪んでいることが多いものの、それは周知のこととして慣れてしまい、さほど気にもとめなくなっている。

 確かに歪みは歪みであり、または緩慢な動作であったりするのだが、町の中で一般の人々とその大きな特徴が、偶発的なかたちで並べられてみると、患者さんたちの姿には、なんとも「確かにそこにいる」というしかない存在感、現実味があるのだ。

 それに比べて一般の人は、確かに「一般」というような姿をしている。一般的なスポーツバッグを下げて、一般的な動作で立ち振る舞いをしているような、なんだかプレーンで引っかかりのない物足りなさを感じてしまったのだった。

 これは、職員としての癖のある眼がそう見させているのか、とも考えられるのだが、病というものが、人の存在感からぜい肉をそぎ落としていって、くっきりとした、その人のなりを浮かび上がらせているとも思える。いや、そう思えてならないのだが、、。問いを残して今夜は、その残響の中で寝ることにします。

 とても疲れた一日だった。



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