2005年10月03日

ぼくが精神病院に勤めはじめたころ

 息子はもう60近くになる。それでも母親は彼のことが心配で時々電話をかけてくる。今日電話があったといかにも嬉しそうにその人はぼくに話した。話題に乏しい日々だけれど、わずかな嬉しさを積み重ねながら、彼は不自由な身体を一歩一歩先へとすすめる。

 世間的に見れば自慢できるような息子ではないかもしれない。彼自身もそのことは充分承知している。「どうしてこうなってしまったんだろう」、そう口癖のように彼は言う。残りの人生にたいして重苦しい思いを抱えながら、それでも生きているという否定できない事実に対して、目を向け、身体を動かし、自分を励ましていかねばならないのだ。

 また来週と言って、ぼくは重い扉に鍵をかける。そしてノブを引っ張り、それが確実にロックされていることを確かめてから階段をおりる。

 その扉の向こうには彼だけではない、老若男女あらゆる人たちの人生が封印されている。ある人は何ヶ月かでそこを出ていくが、二度とそこから歩み出ていくことのない人たちもまた多い。そこは世間から目を向けられることのない区切られた別世界だ。   

 そこでは何を幸せと呼ぶのか、何を希望と言うのか、引き返すことのできない人生をどう生きるのか、ひとりの人間が生を受け死ぬ意味はなんなのか、考えずにはいられない。そして今ぼくはそこに鍵をかける側の人間である。

 かつては自分自身もそこで生活していた。そして同じ生を共有する人たちと2年ばかりを過ごした。人を閉じ込めるということは人権にも関わる重大なことだ。しかしある種の人間に対して、法をもとにその権利を行使することが許されている。それは拘置所や刑務所であり、ぼくが今通っている精神病院である。

 非常に興味深いことに、このことは秘密にしているのだが、ぼく自身がまだ長患いの心の病を持っていて、たまに他の病院で薬をもらったりしているのだ。患者が患者の面倒をみているのだからまったく笑える。実際カルテを読んでいるとぼくと同じ病名の患者もそこに何人か入院している。

 翻訳だけではなかなか生活も難しいので、ある程度暇である程度の収入がある副業を探していた。そこにたまたま転がり込んできたのが、精神病院の作業療法という仕事だった。実際に患者として2年の経験を持つぼくにとっては、立場は違うが経験知識は充分。古巣である精神病院で、今も心のリハビリにいそしむ同胞の力になりたいという思いが強く湧いた。

 自分も心を病み心の問題に対するのっぴきならない思いがあるだけに、心を病む人たちのリハビリの仕事をする、これは大きな声では言えないが(といっても多くの人が読んでるこれに書いちまってるのだけど)なかなかぴったりの役割だと思う。

 今は同病者がお互いの相談にのる「ピア・カウンセリング」というのがあるくらいだ。うまくいけば医者や健康なスタッフには果たせない、味のある役割が果たせると思っている。

 第一に、こうして役にたてることが自分自身のリハビリになるのである。今は治療者の側にいるものの、ぼくもときどき解決不能に思えるような「病み」を抱えている。時にはひとりでいくつもの障害を抱えながら日々生きようとしている人たちに接していると、生きることのリアリティーがひしひしと伝わってきて、自分の生をくっきりと浮かび上がらせてくれるのである。

 自分が生きているという事実を日々感じられることはありがたい。それは毎日人生のスタートラインに立てるということでもある。

 「作業療法(Occupational Therapy)」という耳なれない言葉は、薬物や面談や療養などの治療と平行して行われる、物理的なリハビリや工芸・芸術療法、スポーツ、ボディーワーク、農作業、さまざまな院内院外行事、散歩、小旅行などを含む、広範囲にわたる治療法である。ぼくは冗談でこれをエンターティメント療法と呼んだりしているのだが、実際どんなことを行っているのかは、次回また詳しくお伝えすることにする。

 毎日が新しいワークショップであり、毎週新しい企画と工夫が必要で、実際今までボランティアで行っていたことが仕事になっているような、そんな様子がお伝えできると思う。


(2001.11)


posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の歩んできた道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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