2005年10月06日

降りていく行き方-その2

 最近、ウィークデイはほぼ毎日精神科の病院に通っている。20数年前には患者として入っていたところに、(場所は違うが)勤めている。そこでぼくは安らぎ、日々元気をもらい、新たな動機づけを得ている。勤めはじめてから数カ月たってもそれが変わらないということは、どうやらここは「はまりどころ」らしい。

 ずっと自営で風来坊だったぼくが勤めが楽しいなんて、驚天動地だと思う人がいるだろうが、要は仕事の形態よりも、日々一瞬一瞬体験されている出来事のほうである。

 自分がやりたいこと、これを現実の中で探して取り組んでいくということはなかなか難しい。職業という窮屈な入れ物、経済的な必要という条件付けの中に一生自分を閉じ込めながら矛盾に苦しみつつ生きていくという人生モデルが、ある意味では「仕方のない」ものとして教え込まれてきた。

 その対極にあるのが「ドロップアウト」。しかしドロップアウトしたとて、その先に本当に自分が納得できるような生き方が見つかるとは限らない。

 つまり、社会体勢という枠組み、その枠組みに参画するために必要だとされる「競争原理」や「経済的自立」や「協調性」や「基本的合意」といった価値観から降りてしまい、そこから何かをはじめようとしても、いつの間にやら再びそうした価値観の中で生きている自分に気づくのが関の山だからだ。

 ある意味ではそういった価値観の数々は、人の間で必要だから形成されてきたもののはずであり、あえて拒否しようとしても逃げた先で自らがまたそれを必要としはじめるのだ。

 しかし、それにしてもこの「生きにくさ」は何なのだろう。これが大人になるということなのだろうか? 子供のころのあれこれの夢にあふれた自分はどうしたのだろう? と心のどこかで密かに自問する人は少なくないはずだ。

 こうした典型的な問いが、ぼくの中にもつねにくすぶっていた。それは誤魔化しようのないほど時には心の中で肥大し、自らを煩悶に陥れる。

 突然現代アートの話に飛んで恐縮だけど、60年代以降のアートの中には、描くという行為や、音を発するということや、見たり聴いたり書いたりすること自体を問いかけるようなテーマを持つものが目立つ。アートとは何か? 表現とは何か? 人間とは何か? そう問いかけている自分は? それまで当然のこととして信じられてきたこれらの前提を疑わざるを得なくなってきたのは時代の要請でもある。

 アートだけではない、哲学でも、心理学でも、物理学でもどんな分野でも、それ自体を問い直すような新たな学問が生まれてきている(たとえば哲学史学、哲学社会学などなど)。だとしたら、働くこととは、人の間で生きることとは、社会の中の自分とは? を問いかける仕事があってもいいのではないだろうか?

 本来はどんな仕事でもそうした取り組みは可能なはずである。しかしぼくにはどうしても「自分にとって」「より直接的」に、そうした問いに取り組める仕事が必要だった。そのために、真正面から取り組めるような現実的な手がかりが必要だったのだ。そしてそれが、今こうして書こうとしている精神科での仕事だった。

 こうすると、仕事の動機づけに社会的な視点が欠けているではないか、と指摘されるかもしれない。だが受益者であれ、関係者であれ、利用者であれ、自分が働くことで影響を受ける人たちに少しでもいいものを提供しようとするなら、まず自らが第一の受益者だと考えなければ意味がない。

 「働きがい」を感じるような意味を見い出し得ない仕事なら、まわりにもよい成果を与えようがないだろう。そして仕事の成果は決して一方から一方へと与えられるものではなく、それに関わるものすべてが恩恵として、分かちあうものなのだ。

 さらにこの勤めは、今まである程度すすめてきた翻訳との相関関係も大いにある。翻訳してきた心理学や瞑想の学びの大方が、ようやく実践の俎上に乗せられるようになってきた。一日コンピューターの前に座ってキーボードを叩いているような生活では、やっぱりぼくは発病してしまうのだ。翻訳を続けることはもちろんだが、それにつけても現実とのフィードバックはつねに必要だと感じる。


posted by jksk at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の歩んできた道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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