2005年11月22日

ぼくが生まれたとき

abcabc

2005.11.22

 二十四時間の生死を分けた昏睡から醒めると、世界は光の洪水だった。
世界は美しく、良かった。そこには自分は居ず、または、自分しか居なかった。
 
 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である」 

 神の赦しと癒しのなかで、もう一度自分が生まれるプロセスをぼくは見た。
 そしてぼくは、もう一度この世界に還ってきた。

 一日、二日がたち、光ばかりの世界に陰影がついてきた。物が立体的に浮きだして見えた。良いばかりの世界は消え失せていた。苦しみが始まっていた。

 激しい痛みと悪寒がよみがえってきた。不眠の永い夜に、冷たい風は蕭々と吹いていた。耳元で常に旋律のないピアノが鳴り続け、なにもない白い空間に巨大な鉄塔が回り続けていた。

 幻覚の嵐、赤児のようにベッドに寝たきりのままで、ぼくは排尿さえままならず、付き添い人に二十四時間介護を受けていた。点滴の管がとれたとき、ぼくは、この世で最初の水を口にした。

 「一杯の冷たい水を汲もう。朝ごとに生まれくる命のため」 

 ぼくは、ひとつひとつ習っていった。
 ゆびをうごかすこと、ものにふれること、あしをあげること、そのあしをゆかにおろすこと。たべものをくちにいれること、かんでのみくだすこと、しょうかしたものをはいせつすること、そして、おんせいをはっすること。
 
 おんせいをはっすること、ことばをはなすこと。
 ひとにむかっておんせいをはっすること。
 言葉を話すこと。

 他者が出現した。
 もうひとりのぼく、またもうひとりのぼく、またもうひとりの。もう彼らは、ぼくではない、他者であった。

 他者たちは、ぼくとは関係ないところで何かをしているらしかった。四角く白い部屋に閉じこめられたぼくは、扉を押し開けて時々さしだされるものをうけとり、その不可解な他者たちからの手紙を読み解こうとした。
 
 外界が出現していた。

 外界からは、常にかすかな音がしていた。他者たちは、その音源を何かのために使っているらしい。ぼくが枕ごしに見ている、植物たちの世界とまた違ったもの。他者のために使われるようにこしらえられたもの。

 世界は、自然と、人間と、人間のためにこしらえられた物とに分離したらしい。自分が横たわるベッドもそうしたものの範疇にある。

 そうして、ぼくが扉を開けて外界に出ていく日がきた。
 外には、花束と歓声の気配がしたから。
 ぼくは、おそるおそる、しかし、喜ばしくその一歩を踏み出した。

 扉をでたとき、ぼくは他者になっていた。ぼくが、他者だった。自分にとって他者だった。
扉は、閉めてしまった。あと戻りはできない。自分は、誰なのか?

 ぼくは、その問いに向かって、問いのなかを歩き続けるようになった。
あの、シジフォスのように。

 ぼくは アダム
 ぼくは 現代医学の知恵の木からもいだ林檎を食べた
 ぼくは 大量の抗精神薬と 睡眠薬をのみながら他者の自分を生きている
 ある日ぼくは 苦しみさえそらぞらしくなっていることを知った

 これがぼくの、創世記とそれに続く失楽園。ぼくは20才だった。
 ぼくは、22才まで二年間を病院で過ごし、薬漬けの人工楽園に過ごすより、むしろ病的妄想に苦しみながらもくっきりと自分自身でいることを選び、病院をでた。

 個室は、ぼくの楽園だったのかもしれない。しかし、そこは、去らねばならない。かつてアダムとイブが楽園を追われたように、ぼくは自分を引き裂くようにして自らを病室の外に追いだした。

 業の火のなかに自分をくべ、自分を燃やしながらぼくは世の中に出た。

 (ぼくは、いつもことあるたびに自分の創世記に立ち返る。そして、再び肉体を与えられ、分離の苦しみを負わされ、この世に送り込まれたことを思う。一度は完全に失われたかに見えた命が、もう一度生きよという)

 
 ある日、病院のロビーの陽だまりのなかで、
 黙想しながら、ぼくは再びの人生の意味を読み解こうとしていた。
 すると突然、とてつもない歓喜がこみあげてきた。
 その時、ぼくは、自分がただ生きているだけなのを知った。
 差し引きゼロだ。
 
 ゼロの所からの眺めはすばらしかった。生きているだけでもうけもの、と思ったものだ。
もともと無いものが、今ここにある。ぼくはそれを「余禄の人生」と呼んだ。ぼくはぼくが呼吸をしているのを初めて知った。
 
 ぼくは今でもその景色をはっきりと思い出すことができる。
小さな輪を作って朝ごとに僕らは歌を歌って暮らした。
遠い記憶もなく、明日への想いもなく、慰めのためではなく、
楽しみのためでもなく、
それはただ歌って暮らしていたのだ。

  (2000.9.1 再録)


posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の歩んできた道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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