2005年11月23日

うつ力をつける?

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*子供のころよく遊んだ<牛の形>をした石
(群馬の実家の庭にて)

2005.11.22

 今日、クボクラ医師のところへ再び行った。診断書をもらいにである。腰をすえてかかる事にした。そのためにも診断書はぜひ必要だ。こういうときこそ、制度というやつを利用させてもらう。

 月・火と職場に行くつもりだった。つもりだったのだが、これを登社拒否というのだろうか。いやはやからだが動かない。じつは日曜日の晩に自分の意識の闇に真正面から出会ってショックを受け、かなり沈んでいた。

 これは、うつ明け宣言後、早くも再燃か? と思った。そうかもしれないし、長い目で見ると、まだまだ安心してはいられない状態なのかもしれない。今必要な事は何だろう。ぼくは今回の沈み込みがはじまった、10月31日に書いたものを読み返してみた。これはまたとない休息と内省の機会である。そうだった。いままでとまったく違う時間の中で、自分の深いテーマに向き合う期間だった。

 ぼくはただでさえ背負い込みやすい質なのだが、この秋には背負うものが多くなり過ぎた。仕事、受験勉強、離婚への道のり、そして季節的にやってくるうつである。どれも完璧にこなす事なんてできやしない。それでも律儀にすみずみまでこなそうとしていたのだから、まだまだ未熟者だ。

 とりあえず、その中から一番保留にしやすく、効果も大きいのは仕事を休む事だと判断して、行けばいけるだろうに、思い切って休職手続きに入る事にした。病院からも診断書の請求が来ていたことだし、ここは心置きなく休みを延長しようじゃないか。

 と考えたら、すごく楽観的になった。今日のクボクラ医師もこの前とうって変わって上機嫌で、大山登山の話をしたからだろうか。彼も大山がとても好きで、よく行くという。ぼくが神水を汲んでそれを朝飲んでいると報告すると、まるで孫を眺めるおじいちゃんみたいにやさしく微笑むのだから、、、油断はできない。この次また雷が落ちないともかぎらないのだから。

 健康保険から、傷病手当金がおりるかもしれない。そうすればまるで年金暮しのようなものである。勤め人とはこんなに待遇がととのっているものなのか、、、ずっと自営でやってきたぼくには、にわかに信じがたいようなことだが、社会保障論でも勉強し、条件などを入念に下調べしたのだ。まだもらってもいないくせに、いけないことに、ちょっとうきうきしてしまった。

 今朝パートナーにも言われたのだったが、自分に愛情を注いであげることは、何よりも大切な仕事だ。それが十分にできれば、人に対しても自然に、押付けがましくなく愛情を向けられるようになる。その仕事にしばらく専念することは、今までできなかったことで、今こそ必要だ。それは魂レベルの仕事といってもいいかもしれない。

 その土台がしっかりとできていなくて、今の仕事を続けても、いかにも自分は職員で仕事でやっていますという感じになってしまう。またぼくは、今まで患者さんたちと近いところにいると思っていたが、それは大違いで、どちらかというと自分の中の空虚感や不全感を満たしてもらうために、患者さんのお世話をすることに依存していたようだ。

 これでは患者にとっても迷惑だろう。仕事に行く行かないは二の次だ。もっと大切なことは何のためにこれをしているのか、これを通してどうしたいのか、自分に問いかけること。それには自分とじっくりつきあう時間が大切だ。その時間が今与えられたと思えばいい。
 
 自分は人の役にまったくたっていないのじゃないか、という思いはつらい。今朝ふとんの中でぼくは、仕事にいけなくて、そのふがいなさにこの気持をしんしんと味わっていた。何かができなくては、存在価値がないのか。せっかくやってきたことはどうなるのか。

 ふと、これは患者さんたちが日々さいなまれている気持じゃないかと気づいた。それは若かったころ、ぼく自身が病棟生活で感じていたことでもある。そのつらさが身にしみた。ここに患者さんがいたら、つらいよなぁと言い合っただろう。

 ぼくは、親類の中では一番最初に生まれた子で、まわりの期待もひときわ高かったと思う。たしかに、生まれつき賢い子だった。器用という意味でである。大人の気持を敏感に察知して、先回りして期待通りにふるまうような子だった。だから、それが何かの間違いで期待に添えなくなったときの、ストレスは相当なものだった。

 まわりの期待に応えないと、不安ばかりがついてまわるようになった。人が困っていると、何か自分がしてしまったのではないかと思う。関係妄想である。何か人のためにしてあげていないと、自分の存在証明ができないと思い、<する>ことに忙しくなる。

 何かをしないと、人の役に立てない、生きている充実感がないというのは、現代共通の病かもしれない。自分が社会的な活動ができなくなったとき、社会の中で何の役にたっているのかわからなくなったとき、とてつもない不安感がやってくる。

 それでは精神病院に長年入院して、ただ日々を休み食べすることに費やしている人たちはどうなのか。やはりそのような不安感に圧倒されているのではないか。または、気が遠くなるほどの歳月をそうして過ごすと、社会という概念さえもあいまいになっていく。

 そうして孤立していき、管理されつくした施設の中だけで過ごすのは、不幸なことだ。しかしだからといって、今現在そのような状態にある人たちの存在価値はないのだろうか。または、寝たきりになり、そこで亡くなっていく人も多い。もっとひろげて精神科にかぎらず、あらゆる病気や障害は、したくてもできない、移動の自由がない、選択の機会も極端にせばまるという過酷な条件をもたらす。

 そんな中で、多くの人は、自分の存在価値はあるのか、と自問自答するだろう。そこに、あるよ、と言ってくれる人がいない限り、そのままの自分を受け入れてくれる存在がない限り、自問自答は果てしなく続く。これはつらい。

 ぼくは幸いなことに、これはいい機会だね、順調にいっているよ、神様の仕事をするための貴重な時間が与えられたんじゃない、と言ってくる人がいる。そして、主夫となって、あまり芸のない夕飯を作って待っていると、それを喜んで食べてくれる人がいるのである。

 これは生きるための基本的なプラクティスだ。こういう一日一日の生活がとても貴重で、愛おしい。こういうことって、患者さんには言うくせに、自分ではできていなかったなぁと思う。何があっても、順調、順調、経験は貴重だ。それらに優劣はなく、生きている豊かさを与えてくれると思うとなかなかいい。

 こうして今日もうつうつとすごしながら、ぼくは「うつ力」をつけてきているんだなと思う。弱肉強食の世界では一顧だにされない力だけれど、この類いの病気力がいったんついてくれば、この世の価値観に振り回されなくなっていくだろう。

 こうしてぼくは、とくに何もしないというトレーニングを積んでいるのだ。
 

 


posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の歩んできた道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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