2005年11月25日

タイで自分自身と出会う―瞑想へ(前半)

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*ダイハツミゼット? (アユタヤのレストランで)

**これは2003年秋に、タイへヴィパッサナ瞑想に行ってきた報告文です。以前ネットで流したものに、多少書き直しが入っています。前半は瞑想前にバンコクやアユタヤのあれこれを書き綴ったので、瞑想の部分だけを読みたい方は、後半のみをお読みください。

<帰国>

2週間ほどのタイ旅行から帰ると、熱帯で開き切った汗腺から直に秋寒が染み込んできて、一週間ほどばてていた。しかし、ばてるのでもなんだか違う。簡単に言えば味わえる、小難しく表現すると、疲れに巻き込まれずにそれに居場所を与えて受容していられるとでも言おうか。これは瞑想からのプレゼントであると思う。

三つの旅はみな直感からはじまった。もちろんそれぞれにきっかけがあったし、実現するための受け入れ手や支えてくれる人がいたのだが、よし行こう、と決断して旅に出るまで間を置かなかった。最近からだがよく動くようになってきたと思う。こういう感じは2年ぶりだ。

日本に帰ると、リハビリで担当していた患者さんが外出したまま行方不明になっており、今日、横浜の海に浮いていたところを発見された。着衣や所持品から本人と確認されたと、看護科の職員に知らされた。病院は神奈川県の西のはじにあり、横浜は東のはじだ。彼の生まれは横浜だったという。

天涯孤独の身だった。施設へ行く話がなかなか決まらずに留め置きになっていて、宙ぶらりんで落ち着かなそうだった。ぼくがタイへ行く前、最後に会ったときにはいやに多弁になっていて、生真面目な彼が珍しいなぁと感じていたのだが、それは予兆だったのか。秋の海は冷たかったろうか。こんな旅立ちの仕方もあるのだろうか。胸の中に空洞ができ、すぅすぅとうすら寒い風が抜けていく。

生まれて死ぬことを考える。このいのちは何のためだろう。いつ果てるかもしれない一日一日をともかくも生き延びているぼくは、今日一日の生の轍(わだち)をふりかえる。雨はますます降りしきり、白菜の苗が闇の中で伸びていく気配がする。

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<再会>

2年ぶりのジェフは寺院の事務所の入口に立ってぼくを出迎えた。以前会ったときには僧だった彼の髪の毛を、そのときはじめて見た。ライトブラウンなので、白髪が混じっているかどうか定かでない。僧衣を脱ぎ捨てて、一見どこにでもいる好青年のような面持ちになっていたが、年齢はぼくとたいして違わないはずだ。

ジェフは2年前の夏、ミャンマーの出家僧として"ダンマラッキータ"という名を帯び、日本にやってきた。とはいえ生まれはオーストラリア。ぼくはいくつかのリトリート(瞑想の合宿)で英日、日英の通訳をした。彼とは気があって、うちに泊まってもらっていろんなことを話し、プライベートな集まりにも来てもらった。

しかし、日本と違ってミャンマーの出家僧には想像を絶する多くの戒律の縛りがあって、つきあいの範囲はかなり制限される。ミャンマー人でなく仏教徒でもないぼくは、それを異文化への尊重という形でしか受け入れるすべを知らなかった。

その彼が今はタイの首都バンコクに住み、瞑想の指導をしている。同じ市井の人間となった者どうし、今度は楽に本音でつきあえるなぁと正直ほっとした。

「音楽を楽しんではいけない」という冗談にしか思えない戒律を彼は律儀に守り(それはそれでもちろん僧侶としては立派なことだ)、うちで音楽をかけるたびに、「君がかけたいのならぼくはかまわないよ」といいつつ密かにうなづきながらノッていた様子は、今回ふたりでおおいに笑ったなつかしいエピソードである(結局戒律は守っていなかったわけだ)。

そんな彼に親しみも感じていたし、彼が「フリースタイルでやりたい」と言っていた思いが、いまどんな形で育っているのか、またぼく自身も人生の転換点に立って日常から離れる時間を持ちたいと願っていたので、何回かのメールのやりとりの後、この秋に思い切って彼のリトリートに行くことにした。

ワット・ピチャヤット(ワットは寺という意味)はバンコク郊外にある伝統ある寺院で、何基もある仏塔は高く堂々とそびえ、建物の漆喰は新しく塗り直され、タイ特有のきらびやかなタイル様の装飾が施されている。植え込みもよく手入れがなされ、水をたたえた鉢には蓮や睡蓮が重たげに咲いていた。境内の周りには、貧しい木造住宅がひしめいている。

ジェフとぼくは仏塔の階段を上ったり降りたりしながら、この2年間の空白を埋めるようにに話をした。里帰りをし、インド巡礼をし、還俗したあとは、この寺院に間借りしながら各地で瞑想を教えている。姿は変わっても、彼は俗化した平均的なタイの僧よりもずっとストイックな生活を守り、ほとんどの時間をタイ語や仏教の勉強や瞑想にあてているようだった。

それが、中年期に入った友の生きざまとして、あらためて見えてきた。人に瞑想の成果を伝える以外ほとんど何も持たずに異国で暮らしはじめることの、なんと身軽であてどなく楽しみなことだろう。まだ「還俗したて」で初々しい彼が、商品経済爆発状態のバンコクで第二の生を歩み出すことで、これからどう鍛えられていくのか。伝統や出家という身を守る楯を捨ててなお自分の道を歩んでいくという決意は、ぼくに強い影響を与ずにはおかない。

<バンコクの今>

ぼくにとってバンコクはすでに6回以上の訪問になる。訪れるたびにこの東南アジアの中心都市の目覚ましい変化を見てきた。騒音とほこり、中古車とバイク、様々な乗り合い自動車、方向を持たない人の群れ、ごみごみとした低い軒並み、妖しい闇と薫を漂わせる路地裏、果てしなく増殖していく路上のマーケット、アジアの混沌とパッションの中心だった大都市は、今や急発展を象徴するかのような「清潔で明るい」BIG APPLEを目指して躁状態のお祭り騒ぎを続けている。

記憶をたどりながら歩くなつかしい安宿街の道沿いには、様々な種類のコンビニが軒を連ね、カセットテープの闇市はCDやDVDに、車はこぞって新車に、相変わらず大気汚染も騒音もひどいが、高架の都市鉄道が一部完成し、タクシーはメーターのカウント制になり、いちいち渋滞と料金交渉にエネルギーを使いイライラ感をつのらせなくてもすむようになった。巨大な空調のきいたショッピングモールでは、それほど値段をぼられることもなく、安く買い物や万国料理を楽しめる。

たしかにかつては、不便さやトラブルは旅の楽しみのひとつだった。ぼくも日本の経済力を後ろだてに世界各地を安価に安易に旅行した、バックパッカーだった。世界各地、どの町にも「先進国の貧乏で金持ちな若者」たちがふきだまる安宿があり、穴場のレストランや、まだ「観光汚染」されていない秘密のビーチや素朴な山村、ブラックマーケット、闇、非合法、甘味な堕落、陶酔、現代社会システムからのモラトリアム、、、等々、様々な商品がよりどりみどりだった。

何のことはない、ぼくらはそれらのアイテムを自分に消費させていたのだ。地球規模の先進国主導の巨大マーケットの中では、高踏遊民的なバックパッカーは、規模は小さくても時間と金を世界の隅々で落としてまわり、未開発な観光資源に資本投下の先鞭をつける、おめでたくも自発的なパイロットの役割を果たしてきた。バックパッカーの嗜好をいち早くつかめば、そこに新たなビジネスチャンスはある。

それが便利になった、現代化してしまった、汚染されたと嘆いて何になるだろう。先進国の人間が、ストレスから一服の安らぎを得るために、貧しい国のリゾートでリトリートをきめこむという図式は、結局は、持てる者と持たざる者との古典的な搾取関係の連なりの延長を出ない。資本を手にしたバンコクの若者は、今度こそは自分たちの出番だと、気温の下がらない熱帯の夜町中にくり出し、バーツを振りまく。便利になった、現代化した、そして今の日本が作られてきた。とても似ている。

<ニセ貧乏旅行者>

ぼくは、やっぱりというか、今度こそは快適でおしゃれなホテルにと思いつつ、バンコクのでの最初の夜、ついついかの有名な安宿「VSゲストハウス」に泊まってしまった。シングル一泊300円ほどの木造の建物で英語もあまり通じない。宿のおじさんもくもった眼鏡をかけていて明治時代のような雰囲気だ。トイレも水を手ですくって洗う「セルフウォシュレット」方式。洗濯物はたらいで手洗いして自分で干す。冷房は、天井でのたりのたりと廻る三枚羽根の扇風機。

瞑想会が終わって町にくり出した夜、ジェフが「これかっこいい! こんなのが欲しいんだよねぇ」と、うっとり手にとったスニーカーは、日本円にしてなんと約2万円であった。こんな商品が中心街では平気で売られているという事実に、ふたりしてぶっとんだ。

が、その一方で、長距離列車が二時間乗っても70円。定食が一食同額ほど。路上で売られている花束はどれも100円前後。タクシーの雇われ運転手にきくと、12時間ぶっ続けに働いても、報酬は2000円にもならないそうだ。こうした落差はますますひどくなるばかりに見える。

おりしも町はAPECの歓迎ムードにあふれていた。会議場のある市の中心を流れるチャオプラヤー河ぞいに貧しい家屋が立ち並んでいる。それらをクレーンを使って、"バンコクへようこそ、APEC代表団"と書かれた巨大な幕でおおっていた。駅の荷物預かりは開催時期には閉鎖され、悪名高い渋滞の大通りも、黒塗りの車の列が通るときだけは人っ子一人いないゴーストタウンのようになった。近隣の屋台も路上生活者もみなどかされていた。

とにかくそのときだけはと、バンコクは一時しのぎのお化粧に必死だった。瞑想の前に3日間の休暇をとっていたぼくは、そんな場所にいる気がせず、電車で2時間ばかり北にある古都、仏教遺跡で有名なアユタヤで過ごすことにした。

電車の扉はどの車両も開きっぱなし。ぼくは席を立ってデッキで風に吹かれながら沿線の風景を楽しんだ。タラップに足を降ろすと、砂利が30センチくらい下で後ろにすっ飛んでいく。

線路ぞいにトタンで作ったあばら家が連なり、線路は子供たちの遊び場になっている。電車は意味もなく突然止まったりして、その間に適当に人が乗り降りしたり、開いた扉を抜けて通り道にしていたり、お菓子売りが乗り込んできたりと、そんなところは昔と変わらずうれしくなってしまう。

田舎に入っていくにつれ、電車に手を降る子供たち、ぼーっと材木に座っているおじさん、枕木だけのプラットホーム、寝そべる野良犬などが増えていき、タイの現代化がバンコクの一極集中といわれるのもうなづける。

夜着いてまごまごしていたら、外国人と見たか地元のおばさんがホテルのありそうな方向を教えてくれた。今度こそ、今度こそ、とつぶやきながら豪華なホテルを探していくが、またも客引きの声につられてとてつもなく家族的な雰囲気の安宿へ。夜中まで地元の若者がたむろしていて、泊まり客よりそっちのほうが多い。

結局毎晩ぼくが酒とつまみを買い、夜は英語とうろ覚えのタイ語と日本語のチャンポンでバカ話しにうつつを抜かした。昼は町のごみごみしたマーケットをうろつき廻る。ラーメンを喰らい、チャーハンを喰らい、「ルンミ」という、トッピングの豊富なかき氷をたらふく食べる。熱帯の果物もいつでも旬で手に入る。

アユタヤは仏教遺跡で有名で、十数年前にも一度訪れたことがある。今回バイクを借りて市内各地に点在する遺跡を走り回ったのだが、要するに残っているものは瓦礫の山と、頭部の打ち壊された砂岩の仏像ばかりで、地元の人にそれらを遺産として尊重しようとする意志が感じられず、侵食の度合いはかなり進んでいた。

歩き回っていると、これらはたんなる仏教の死骸である。あちこちにたむろする野良犬野良猫や、色とりどりの鳥の声、鮮やかな花のほうがはるかに生き生きとしており、ブッダの教えの消息を伝えているように感じられた。生きとし生けるものたちは、今日も元気ですよ、死んでしまったものを衣食住としたたかにも利用しつつ、たしかに生をつないでいる。

バイクでどこまでも走りながら、風を受け、見知らぬ原野の果ての果てをうろつきまわっているほうが、はるかに楽しかった。バンコクに戻ろうという気が強くしてきた。こうしている場合じゃない。ぼくは、死んでいるものではなく、生きているものを体験しに来たのだ。

もうあてどなく彷徨う旅はもどらない。そこにいる意味を強く感じるような旅しかできない。そのためにわざわざこの暑い国までやってきたんだ。バイクを返し、荷造りをすませ、朝早くジョク(おかゆ)をかきこんでぼくはバンコク行きの列車に乗った。

          ◎続けて書いています----次回瞑想編へ◎


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