2005年11月25日

タイで自分自身と出会う-瞑想へ(後半)

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*瞑想の会場「ピチャヤット寺」(左)
*瞑想参加者の一部・ジェフは左から二人目(右) 

<リフレクション>

朝4時前に起きてジェフはお寺の門で待っていてくれた。そういえば、またハグもしていなかったなぁ、来たときにはばたばたしていて。彼の広い胸と長い両腕に包まれる。ぼくも包み返す。空は半分曇りで星がぽつりぽつり。彼が出家していたころは、戒律から握手はおろか僧衣に触れることさえもできなかった。

「南十字星はここから見えるかい?」「いやどうだろう、オライオンがあそこだ」「オキナワからだって見えたんだ、きっとあるはずさ」。タクシーがつかまるまでぼくたちは星を探していた。

また会おう、とは言わなかった。一週間の瞑想のあと、お互いに刻々と移りゆく瞬間の連続を体験してきたので、言えるのはただ、「神の導きのままに、また縁があるなら」というようなことだった。約束しない別れはじつにさっぱりして気持がいい。

空港までの小一時間ぼくは自分の呼吸に集中し、"Life is now"という彼の言葉を反芻していた。呼吸とともにその言葉は「永遠は今」に置き換わっていた。

<初日>

アユタヤから大急ぎに急いで帰り、バンコクのウィークエンドマーケットに寄った。瞑想に入ってしまえば寺から外に出ることはできない。俗世間の欲に関する用事で飛び回っていたので、陽が傾くころ寺についたぼくはくたくたになっていた。

前回冒頭に書き出したジェフとの再会がここにくる。初日すでに瞑想会は始まっていたが、彼のすすめに従ってぼくはひたすら眠った。20畳ほどもある板の間でひとりきりだ。大通りからのひっきりなしの騒音が遠く聞こえる。お寺の鐘に合わせて、境内の野良犬がいっせいに鳴き始める。窓から見おろせるトタンでできたスラムからは、子供の泣き声。

これが日曜日あったことのすべてだ。翌日から書くことも読むこともできない決まりなので、終わったころに書き付けたメモを頼りに瞑想中の体験を拾っていく。

(前回「リトリート」と書いたが、俗世間からの一時的撤退を広くこう呼ぶ。リゾートなどへのリトリートは、いわゆる休暇のこと。今回のような瞑想の合宿のリトリートはそれとは違い、集中的に瞑想を行う環境確保のための積極的撤退である。用語の使い方が紛らわしかったので、ここにもう一度確認しておきます)

<瞑想に入る>

ここまでわざわざやってきたという意味をくり返し考える。とにかく一週間、これは捨て身でかからなくてはもったいない。気負い過ぎかもしれない。でも、国内で参加してきた瞑想会と違って、なぜここまできたのか、導かれてこなければ自分はここにいないはずだ。その意味を銘じて朝4時に瞑想室に入る。

ひたすら眠い、drowsyという言葉ばかり浮かぶ。実際坐っていると眠ってしまうので、歩く瞑想ばかりした。窮余の策である。ジェフによれば、ほとんど動かない状態に入ると、日常に適応した心がそれを休息だと判断して眠くなってしまうのだという。うまいことを言うものだ。

熱帯である。暑い。つい多めに食べてしまう昼食のあとはとりわけ眠くなる。イヤー先は長いなという気持と、せっかくここまで来たんだから早く没入したいという気持とが交錯する。

瞑想について少々。これは南方禅とも言われる「ヴィパッサナ」瞑想である。日本ではほとんど知られていないが、近年ブッダ自身が行っていた伝統的でベーシックな瞑想法として、少しずつ書籍出版や瞑想会が行われるようになってきた。ジェフもこれを教えるために来日した。

ぼくは専門家ではないので、以下は体験をよりどころにした素人の解説であると思って聞いていただきたい。 (以下の***内はとばして下さってもけっこうです)

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方法は大きく分けてふたつ。心を静め研ぎ澄ますための「集中瞑想」。おもに呼吸などある対象に意識の集中を行う。それからこれがヴィパッサナだが、自分自身に起こっている諸現象(知覚、感情、思考など)をつぶさに深く観ていく「観察瞑想」。前者の集中自体はヴィパッサナではないが、瞑想するために不可欠な心のコンディション作りと言えようか。それから今回は、特別にジェフが力を入れている瞑想法として、慈愛の瞑想(メッタ)が含まれていた。

一日は朝4時に始まり、坐って知情意を観察することと、非常にゆっくりと歩きながら一歩一歩をつぶさに観察していくことを交互に行う。さらに、食事、トイレ、洗濯、日常動作、眠る前に仰臥姿勢でも、起きているあいだは留まることなく観察を続ける。その間、アイコンタクトを含めて他者との交流は一切なし。教師との問答のみが許されている。10時消灯。

こうしてひたすら起こっていることに対して感覚を研ぎすませ、徹底した自己観察を行う。ジェフが採用しているのは、ヴィパッサナの中でもミャンマーのマハシ派のもので、心の中で、自分が今感受している感覚や思考を言葉を使って「ラベリング」することに特徴がある。すべてがタイ語と英語で行われたリトリートなので、ぼくは英語で行うことにした。

たとえば水を飲むとき。心でたとえばこのように確認しながら行う。
「渇きを覚えている。(水のことを)考えている。飲もうと欲している。探している。(コップを)見ている。手をのばそうとしている。のばしている。(さらに)のばしている。さわりそうだと思っている。さわっている。(冷たさを)感じている。持ち上げようとしている。持ち上げている。重たさを感じる。(さらに)持ち上げている。(筋肉に)抵抗感。近づいている。もっと近づいている。待切れないでいる。(唇に)接触している。冷たい。(コップを)傾けている。(さらに)傾けている。(水の)感触。冷たい。流れを感じる。滑り込んでいく。(さらに)傾ける。流れ込む感触。飲んでいる。流れている。飲んでいる。気持よく感じる。さわやかに感じる。。。。。」

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<流れゆく生の豊かさ>

以下このように、「言葉にして確認」しながら動作を行っていくので極めてゆっくりにならざるを得ない。ただ坐っているというだけでも、感覚や思考は絶えず変化している。体験を通してでないと今回の話はなかなかわかりにくいかもしれない。

その時々一瞬ごとに自分が何を感じているのか、注意深く観察しながら過ごすと言ったらわかりやすいだろうか。瞑想を続けていると、いかに自分が日常の中で多くのことを無意識に行ってきたかがわかってくる。水など手にとってごくっと飲めばそれで終わり。しかし、それだけの動作の中にも様々な肉体の感覚や心の動きが含まれていて、それらがすごいスピードで変化しているのだ。

急ぎ足でさっさと歩くとわからないが、ゆっくり歩きながら観察すると、たとえ一歩でも同じものはない。雨上がりに外を裸足で歩きながら瞑想していたら、地面の変化がよくわかった。そしてその変化が全身に影響し、感情にも変化を与える。

人として在ることは、からだとして在ることだと実感する。からだに起こったことが心に、またその逆が如実に感じられる。悲しみは波のように胸をひたし、それが全身に微細な模様を描きながら広がっていく。地面のわずかな突起が心に抵抗感を芽生えさせる。

ほんの短い時間にも、これだけ濃密な体験が詰まっているのだ。それが苦であれ楽であれ、大きな刺激でもささいな刺激でも、すべてをあますことなく感じ切ったらなんと豊かな生になるだろうか。

「ぼくは自分をまだ充分に知らない。ぼくは自分をすみずみまで体験したい」
(以下「 」内はリトリート後のメモ、当初英語で書いたものを今回翻訳)

風がそよと吹くだけでも、感覚の流体である全身の流れが変わる。同時に心はまったく平静でありつづけず、また波のように変化していくのである。ジェフと映画「マトリックス」の話をした。目覚めはじめた主人公ネオの眼には、この世界のすべてが絶えまない記号の流れに見える。そこだけが一点止まった観察眼で眺める世界は、何一つ固定したもののない記号の流体である。

「未来はうかがい知れず。過去は今ここから振り返るもの。現在は過去の産物。未来は現在の産物。今はあらゆる時を包み込んでいる。永遠でさえも」

「何が起ころうとも、向かい合わねばならないのは私自身。外からやってきたように見える出来事でも、取り組む責任は自らにある」

「背筋をのばして坐る。胸を開いていのちに向かい合う。いのちは今ここに。
ハートを開く。この瞬間やってくるものすべてを受け止める。慈愛に満ちた気づきのまなざしでつぶさに観る。怖れなし」

「いのちはただ今に在り。失うものは何一つない。すべては私とともにここに在る。私は何一つ所有せず、何にも所有されない。私をはじめあらゆるものはあるがままに存在する。そして私たちは、自ずから相即(inter-be)している。ゆえに、この一瞬にして、すべては成就された」

<親和力-affinity> (もともとゲーテが使いはじめた言葉だ という)

すべての食事は正午までに終え、午後は断食をする。それが南方仏教の伝統で、瞑想会でも守られていた。とりわけお粥や熱帯の果物がたっぷり出たのがうれしかった。オープンエアーの食堂まで行くのに、瞑想の建物から出て境内を歩いていかねばならない。一般の人も多く出入りする中で、うつむきながら歩くのも大変だったが、途中鮮やかな花々や生き物に出会えるのも楽しみだった。

「蟻は自分の仕事に専念している。私は瞑想に集中している。それでも、お互いに影響しあっている。相手に手出しもせず、ともにする出来事もないのに。同じ時と場所に存在しあっている。慈愛が宙を満たしている。それを呼吸しなければ、誰もいのちがつなげない」

坐る前に、瞑想室の窓から見える景色がある。木の枝に見え隠れする揺りかご。

「いつも温かな慈愛をもらっていた。瞑想を始める前に立つ場所から見える、揺りかごの中の赤ちゃんから」

瞑想を続けて何日かたつと時間の感覚を失う。ただひたすら坐っている自分があるだけになってくる。

「どの一瞬もみな違う。二度と戻ってはこない。そしてこの今は、私の残りの人生のうちで最初の一瞬」

因果関係

「きっかけを受け取ると、その結果を体験する。受け取るか否かは自分が決めること。意識しようとしまいと何を選択するかは自分次第。種を播き、刈り取るのは自分自身」

周りのものとのつながりを感じ出す。花を覗き込むとその小さな花弁の中に、世界が展開している。早朝まず一番に慈愛の瞑想で明ける。「私が幸せで健康でありますように」。続いてその祈りの輪を部屋、建物、寺院、近隣と広げていき、全世界、宇宙へまで満たしていく。そして最後に自分に戻ってくる。

「自分自身をつぶさに深く観ていけば、この宇宙を統べる法則がわかってくる」

affinity・・瞑想を通じてまわりのものの存在感が際立ってくる。自分に専念しているのに、多くのものに支えられていることが如実に感じられる。孤独感は消え失せ、安心の波に満たされる。そのとき胸をさざ波のようなものが次々と流れて通り過ぎていくのを感じた。身体感覚としてはじめて感じる歓喜に似た感情。

<雪だるま理論>

「音が鳴る。鼓膜の振動によって感知する。それが何なのか判断する。反応する。感情が湧く。思考が芽生える。そに記憶や様々な考え方の癖がからみつき、またたく間に雪だるま式に肥大し、ストーリーが生まれる」

たとえば、「ベルが鳴る。音として聞こえる。あ、ベルの音だ。何か起こったのかも知れない。不安だ。事故かも。そうだ前にもこんなことがあった。あれは火災報知器の音だ。疑いない。誰かに知らせなくては、いやまず逃げるほうが先か・・・」

どの時点で気づけるだろうか。思考からストーリーにはまっていき、くどくどと考え続けることで、人は風の涼しさを忘れる。口に入れた果物の甘さを忘れる。目の前の人の笑顔を見ない。悲鳴をあげているからだの信号を感じない。今ここにある生の豊かさを逃してしまう。

すべてを感じながら生き切ったら、人生はなんと豊かなものになるだろう。そう、感じることへの怖れはある。楽は感じても苦を感じることはできればしたくない。生の中にはすべてがある。コントロールすることは難しい。そのために多大なエネルギーを裂くよりも、すべてを感じ切る勇気を持ったらどう変わるだろう。

「あなたは威厳を生まれ持った存在。あなたの名前は<意識>。恐れないで。不安もあなた自身に属する感情。不安なのは、あなたが生きているという証拠」

<終りに>

いささかまとまりのないものになってしまったかも知れない。瞑想の体験はその中でないと再現することが難しい。最終日、午後に最後の集まりを持って解散後、ジェフとシンガポールの女性とぼくの3人で、バンコク夜遊びに興じた。

ジェフは地元の人でなくては知らないような、巨大なナイトマーケットに連れていってくれた。人ごみや車の洪水をすいすいと魚のように泳ぎ回る彼に、ぼくたちはなかなかついていけない。身軽に柵を飛び越えて得意そうに笑ってみせる。

いろんな商品をあれこれ見てまわるのが、ぼくたちよりはるかに楽しそうだ。一番はしゃいでいたのは彼ではないだろうか。自慢のバナナホーン(バナナの形をしたかわいい携帯電話)に人の番号を打ち込む彼。こういう形で出会えてよかったなと思う。

その晩遅くまで遊び回っていたので、結局ほとんど寝ずに翌日帰国することになった。集中した瞑想から醒めるのは、ほんとに一瞬である。盛り場に向かうタクシーの中で、ぼくはクラークケントのように真面目な新聞記者から遊びのスーパーマンに変身した。

冒頭の別れの場面がここに続く。最後にこんなメモをした。

Love that flows and spreads like ripple. "Life is now" continues even after the retreat finished.


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