2005年11月28日

割れた甲羅を持った猫

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冬に咲くサボテンの花
(猫は飼えなくなったけど、いろいろな植物と一緒に暮らし続けてる)

2005.11.28

 奇妙な夢をみた。白猫がうずくまっている。ぼくを含めてまわりの人たちが、心配そうにその猫を見ている。

 猫の背中は甲羅になっていて、それが縦にまっぷたつに割れていて痛々しい。動くと傷が開いてしまいそうで、みんな心配している。

 しかし当の猫の表情はとても静かで、アーモンドの形をした大きな瞳には苦痛の影は見られない。ただ静かにじっとして微笑んでいるようにさえみえた。

 割れた甲羅の障害が影響して、左側の瞼はほとんど閉じたままなのだけれど、一瞬開くその瞳は明るい緑色で、のぞくと果てがないほど深みがあり、こんなきれいな眼をしている猫は初めてだなぁと思っている。

 猫は傷ついて動けないが、取り巻く人々もぼくと同じく、安らぎに満たされている様子だった。猫のpresence(存在)が、ぼくらを魅了していたのだ。何もしてやれないけれど、その傷ついた猫がいることで、静寂の時間は永遠に続くかと思われた。

 夢の前後のストーリーはまったく憶えていない。長い長い夢見だった。遅く寝たので寝起きも悪かった。でも、気づくと朝日が曇ったガラス窓にまぶしく照り映え、起きる時刻を教えていた。

 ぼくはとても弱くなっていた。昨日の夜中のワークの余韻がまだ残っていて、その気持が続いている。弱々しいままの自分がベランダの植物に水をやろうと出て見ると、意外に外は暖かく、二日間留守にしていたプランターに、冬咲きの菜の花の芽が出そろっていた!

 ぼくは泣いてしまったのだ。それを見てうれしくて。すぐにパートナーに知らせると、彼女も一緒に喜んでくれた。

 それから、甲羅を持った猫の夢のことを話した。彼女はそれはぼくのことだという。そんな猫になりたいんじゃないの、傷はなかなか治らないけれど、そのままでいい、そのままの存在が静かで、まわりにその静けさが波紋のように広がっていくような。

 ぼくはいまだに現象的なことに気をとられていて、自分の根本から目をそらしてしまいがちだ。弱い自分が許せなく、社会の中でいっぱしに働き、成果を上げて優れたものになろうとする。しかし、それに反して病気になったり、人との関係がうまく取れなかったりする自分の現実を責めてしまう。

 朝日の中に弱いままで立っていると、その暖かさが身にしみて、弱いからこそ開きっぱなしになった傷口がやさしくいたわられているように感じる。ぼくはもう一度、患者さんたちと連なる体験をしているのだと確認する。

 開かれた弱さ、その弱さがそのままで暖められている、それを鎧でおおって出ていかなくても、<そのまま>のプレゼンスこそが自分そのものであり、自分が適応しなければ、合わせなければと思い込んでいる社会は、じつは強いあなたではなく、そのプレゼンスをこそ必要としている(弱さそのものではなくて、そのプレゼンスだ)。

 自分は社会の(人の)重荷にばかりなっている。少しでもついていかなければ、という焦りに取りつかれるほど苦しいことはない。できるはずだができない、という逡巡の果てにできないという事実を認めるとき、とてつもなく弱い自分が「開いて」いく。

 菜の花の発芽を見ても泣いてしまう。

 ぼくがしようとしている(これまでしようとしていたことも含めて)仕事とは、こういうことだったのだ。今の時代に必要なこともそれだったのだ。資格をとろうと勉強している精神保健福祉士(PSW)という仕事は、精神病者・障害者をおもな対象としているけれど、それらの人に限らず、今の時代、疲れた人はみな弱いままの自分を認められる場所も関係性もなくて、苦しんでいる。

 病院でさえ安らぎの場所ではない。患者ばかりか働くものにとって、忙しくストレスフルだ。そのままでいい自分で気持よく存在していなければ、相手もそのようにはなれない。大きな無理がかかって、ぼくがこうしてダウンしたのは自然なことだ。

 ぼく自身がこのままで安らぎ、誰でもきていいよ、がんばらなくていい、自分以外の何者にもなる必要はない、あなた以外の何も持たずに手ぶらでおいで、といえるような場所になるための、これは練習なのだ。というより、それを発見する、思い出す過程なのだ。

 傷口を開いたままにできる安全な場所と時間、関係性を自分に与えてあげるための休暇である。ぼくは自分にとてもいい贈り物をしている。それはもちろん、パートナーにとってもいい贈り物であり、職場にも、社会にとって必要なものだろう。

 <強い>は、<弱い>の対極ではない。開いたままの傷口を暖かさにさらすことができたとき、そのままで感じることを深く許したとき、自分がその状態でいることを許したとき、明らかに変わっていくものを感じる。

 そのとき自分が何かを知ることになる。それはとても苦しい過程だ。社会化されている自分は、こうあるべき自分にがんじがらめになっているから、頭でわかっていても、現実にはやはりそうあるべきだと、素直な気持をいつのまにか書き換えてしまう。それをさらけ出す、出発点に帰る、しかしもとの木阿弥になる、またさらけ出す、出発点に帰る。。。

 そうしていく過程で、自分は弱い力をきたえている。強くなるためではなく、「弱力」をつけていくのだ。それはきっと、このあいだ「病気力」といったことと似ているのかもしれないし、そういえば「老人力」という一昔前のはやり言葉や、エッセイでも書いた「降りていく生き方」にも通じるのかもしれない。

 それはいわゆる強さとは違うけれど、力である。弱さも混沌も様々なものを否定せず、それらを含んでとうとうと流れる豊かな河のような流れゆく力である。流れているから、いつでも変化していく。安定はしていないけれど、変化そのものが河の性質だ。しかしそれはやはり河なのである。

 だからぼくは、喜んでこの11月28日の昼下がりを受け取り、密度濃く深く過ごす。自分の今の状態、それはいつでも戻れるし戻って確認するような、大切な出発点であり、帰着点でもある。それを忘れないようにしよう。

 "ドン・ミゲル・ルイス"、" ジェラルド・ジャンポルスキー"の著作から、まだ読んだことのない本を読みはじめる。許しの祈りがいま一番必要。



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