2005年12月15日

許しの意味--ぼくと精神医療

DSCF0026.JPGaa

2005.12.12

 ぼくがあんなに毎日嬉々として通勤していた病院にストレスを感じるようになったのは、表面的には、硬直した制度や職員とのギャップだが、深いところでは、「恨み」の感情であることが最近わかってきた。

 約4年前、新聞広告の募集を読んだときから、ほんのはずみで立ち寄ってみた精神病院に勤めることになった、その動機は、かつて自分が入院した二年間を、今度は奉仕することでお礼したいということと、職員という立ち場で関わってみたら、いったいどんな発見があるだろう、という好奇心であった。

 当初は自分が患者でもあることを言わずにいたが、だんだんと信頼できる職員や患者さんにも打ち明けて話すようになっていった。それを自分の天職だと思うようになったのは、そんな中で、精神的な病気はマイナス面ばかりを見るのではなく、それを契機に自分を深いところで発見し、創造的に生きることができるまたとない恵みである、という確信を自分についても患者さんに対しても強め、それを日々実証していく現場があったからだ。

 また、行き場を無くしたかのように見える現代社会に対して、新しい価値観をもたらす可能性も感じた。それは、不幸なことに長い間社会から隔離されてきた人々だからこそ護ることのできた、ある脱社会的な感性に触れたからだ。
   
たとえば、嫌なことをいやと言える、これは重要なことだ。病棟では患者のわがままと言われることも多いけれど、彼らの主張ははっきりしている。自己の存亡がかかっているからだ。生活のすべてが病棟にあるわけだから、そこで心地よく暮らせなければ困る。当然の自己主張である。それはまともに生きたいという欲求から発している。

 一般人の関係ではなかなかこれが言えない。いやでも我慢してつきあわねばならないという、暗黙の了解があるからだ。それがいわば大人としての礼儀だし、適度な距離の取りかたといわれる。そこでいや、と言ってしまうと、まるで家族にたいするようなぶしつけな接しかたになってしまう。言い方を工夫するにしても、嫌、を伝えるのはむずかしい。

だから嫌を言えることは重要なのだが、疾病による「くせ」が、そこにからんでいることもあり、心の病気だからわがままなんだ、ですまされてしまうことが多い。病気だからこそ、うまく伝えられずにもどかしくなって、しまいには爆発してしまうという、どうにもならない仕組みを抱えていながら、それを理解されないのはつらいことだ。専門機関である病院でさえ、多くの場合こうである。

退院してからも、社会の中でさらにそういった誤解を受ける機会が増えることになる。判断のちぐはぐさ、行動の遅さ、応答のあいまいさ、おもに対人関係でぎくしゃくしてしまって、仕事や生活がうまくいかない。症状でそうした傾向を持つことに加えて、実際の対人場面でも失敗を通してそれが証明されてしまい、このうまくいかない傾向は加速される。

こうして症状が悪化してまた入院となることも多い。くり返して入退院が続くことを「回転ドア現象」という。ぼくもその回転ドアに数回乗った。それでもなかなか社会に、つまり多くの人間がそれがまともであると思っている群れの中に入っていくことはむずかしい。

 こうした一連の仕組みを理解してくれて、本人のペースに合わせて歩んでくれる人なり、場があればいいのだが、「娑婆」はそうは甘くないのか、障害者は施設が居場所だというのか、ほとんど社会の中で暮らすという向きにはなっていないのが今までのいきさつである。

ぼくは発病してから二十年以上たって、自分が世話になっていた精神病院に、今度は職員として勤めることになったのだけれど、自分自身も歩んできた、こうした困難な道のりのことを思うと、患者さんたちの立ち場が人事とはとても思えない。病棟で子供扱いにされ、差別的な待遇を受けているのを目にすると、ついかっとしてしまう。

それで、この四年間というもの、けっこう怒り通しだった。ミーティングではしょっちゅう提案をしていたし、本人に向かってぶつけることもあった。それは患者が主張していることをもうちょっと理屈っぽく言い直しているにすぎなかったろう。つまりぼくはいまだに患者なのである。

もうちょっと職員としてのスキルというか、視点の違いを持ってもよかったかもしれない。しかしどうしても、感情が先にたつと、怒りが出る。怒り自体を表現するのは、じつはぼくにとってはもっと重要なことだったのだが、まわりは引くよな。ぼくはとにかく怒ってばかりいた。

そしてその怒りは、やはり患者であった当時から引きずってきた、精神医療や社会との衝突にまつわる恨みから来ていたのだ。ぼくは20代のころ入院していた病院に反抗して、強制退院になっている。つまりもうここにはいてもらっては困る、と最後通牒を渡されたのである。それ以来、まともに治療を受けていない。最近になり、ようやくクボクラ医師という、ちょっといかれた人物と出逢って、治療を再開する気持になれた。

ぼくの病院勤めの毎日の活力は過去の恨みであったかもしれない。そして、それを患者と共有しているような、連帯感さえもあったのである。しかし病床数280という巨大な病院の中にいると、患者が消耗していくように、ぼくも疲れてくる。それはいくら怒っても変わっていかない現実の壁にぶちあたるからだ。それにもまして、恨みの感情は、自分を枯渇させる。

もともとの動機が、医療という大きなシステムに対する、何らかの反抗心だったから、自分が疲れて症状が再燃し、職場から一時撤退してみると、反抗する対象から離れることができてほっとした。しかし、もともと好きで患者さんたち接している毎日だったので、彼らと会えなくなることは寂しい。彼らのストレートで素直な関係の取りかた、信頼感や生への渇望は、依然としてこの混乱した世の光だと思う。

そのすばらしい質は、社会に向けて発信すべき宝であるし、福祉用語を借りていえば、貴重な資源である。置かれる場所、取り巻かれる関係性さえ変われば、その質は光り出すはずだ。

こうした肯定的な気持がふくらんだとき、初めて元気になり、これでやっていけるという確信が生まれる。

最近、ジェラルド・ジャンポルスキーの「許し」についての著作をいくつか手にとっているが、そこにも書かれているとおり、過去の恨みに満ちた自分との和解が必要である。今までたどってきた道の、多くの苦しみを手放し、地に返してやる作業を今している。それには、いま少し、いやかなり時間がかかるかもしれない。それでも、その行く先の景色は見えてきた。



posted by jksk at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の歩んできた道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。