2005年12月17日

道化は心のサバイバル術

「道化は心のサバイバル術」--2003年に書いたもの。今回キッチンハウスを訪ねたことで、思い出したことをここにアップしてみました。

病棟で(ぼくは精神科のリハビリテーションをしています、つまり精神病院の一室での話)、いつも「だめだ、だめだ」が口癖の患者さん相手に、ふと思いついて溜め息のつきかたの練習をした。

「だめだぁーーーー」(溜め息)。これにはこつがある。だめだぁーーーー、のさいごの「だぁーーーー」で、完全に息を吐き切ること。すれば新鮮な空気が肺の中にどーーっと入ってくるんだけど、中途半端だと効果がない。

だめだとは思い切れないで、不完全燃焼で終わってしまう。まだまだ不徹底だと反省すべき点が残る。

本当に自分はだめだ、救いようがない、肥えだめにはまってみじめに死んだほうがましだ(現代では難しい死にかただが)。そういった万感の思いをこめて、「だめだぁーーーー」(註*アントニオ猪木ふう)。

我が身をふり帰ってみても、ほんとにだめ続きだった。かなり世間体を気に病むたちで、ええカッコしいなんだけど、その反動で、はめをはずし始めたら音速の壁を突破しかねない勢いがつく。

生真面目すぎる一方で(これが鬱になりやすい性格の類型)まるで世の中をなめてるとしか思えないおふざけに走ったりもする。ぼくの人生は、この両極端のくりかえしです。まさに躁鬱。もしかしたら病気ではなくて、たんなる性格の問題だったのかもしれない。だとすると、人格障害か。。。

まん中がなくて両端ばかり。それがぼくの性質です。そんなわけで、患者さんとふたりで「だめだぁ−、だめだぁ−」を練習しているうちに、他の患者さんも加わり、いつのまにかリズムが出てくるんだ。あ、今回はうまくいった、なんてけっこう嬉しかったりして。

ぼくにも気合いが入ってきて、だんだん夏バテが解消されていく感じさえするのであった。精神病棟の一日は過ぎゆく。

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ところで金がないと思ったら、やっぱり働いていないからだった。(註*精神科は非常勤なので、それだけで食っていくのはつらい)

タイミングよく、通訳の仕事をまわしてもらえた。予定はギチギチだけどやるしかない。これで車検代と夏のスクーリング諸経費と飲み代はもらった! 

仕事の内容はクラウニング、つまり道化のワークショップ。道化をセラピーと一緒にしてやっている人が来日するということだ。

その人はローズ・ナジャさんという女性で、アメリカはニューメキシコ州のサンタフェからやってくる。

好きな画家ジョージア・オキーフの住んでいた砂漠の町。微妙で妖しい色合いの砂丘や雲が流れている土地。というとすごく期待感がふくらむが、横道にそれずに話を進めよう。

夏の初めに、彼女の東京と神戸でのワークショップに張りつきで同行することになった。こういうタイプの通訳久しぶりだったから、初日、大変でした。英語→日本語、日本語→英語。場所にも人にも慣れてないし、言葉の弾丸飛び交うなかに身を置いて、それらすべてを即座に双方向変換。

だめだぁーーー、などと溜め息をつく間などまったくなく、第一日目終了後ホテルのベッドにそのまま着替えもせずに倒れこむ。

クラウニング(道化)というと、サーカスのピエロくらいしか思い浮かばないぼくだけど、予備知識に本を読んでみたり実際にその場に立ち合って今降り返ってみると、演技して人を楽しませるというより、人間が生きている上での行為や出来事などはどんなことでも <滑稽になりうる> 。

例えば、まじめに悩んでいる人は滑稽(・・になりうる)。深刻になればなるほど滑稽さは増す。それを「他人ごと」だと思えば。誤解されるのをこらえて話を進めてみる。

ローズが上げたエピソード。

18世紀のイギリスの有名な道化師グリマルディーの話し。深刻な鬱状態にみまわれ、医者に相談にいった。すると医者は、「笑ってリラックスするのがいい、今ちょうどグリマルディーというすばらしい喜劇役者が来ているから、見にいってみれば」「私がそのグリマルディーなんです」

・・・というわけで、その晩のショーでグリマルディーは、鬱状態のまま、ピストルを撃ち、ナイフで刺し、飛び降りたり、ありとあらゆる手段の自殺の方法を試みて失敗する哀れな男を演じて、笑いと大喝采を浴びたということだ。

自分の絶望をネタにできたなんて、天才だから可能だったと思えるかもしれないが、ぼくの鬱状態を思い起こしてみれば、どっぷりはまり込んでいた時にはどうしても解けなかった行き詰まりが、行き着くところまで行って「底をついた」ときに、はじめて、ああ、こんなことだったんか、とぱっと腑に落ちることと何か関係がありそうだ。

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外から見れば絶望している人間は滑稽である。置かれている状況や見方を変えてみれば、ずいぶん絶望は違って見えてくる。

昔はやった相原コージの4コマ漫画「コージ苑」の中に、太宰治のキャラクターがよく出てきた。あの、「生まれてすみません」の太宰である。人間失格はいまだにロングセラーで、薬や酒に溺れ、女に溺れて入水自殺で幕を閉じた彼は、それをネタに売れた(・・わけじゃないけど、ぼくはじつはそう思っている)のだからある意味たいしたものだ。

だけど、彼(の亡霊?)が現代にやってきて、お茶の間の団らんや恋人のベンチなどでいちいち「生まれてすみません」とやるもんだから、「うざいヤツ」だとみんなから疎まれているという設定。まったく、あの時代だったから売れたのかも。

最近似たケースでは、短歌作家の枡野浩一の「石川くんシリーズ」。石川啄木の「不幸かっこしい」を大いに笑っていた。以下は引用。

<そんな立派な石川くんに、加藤千恵ちゃんの歌を、
ちょっとだけ紹介してあげましょう。
石川くんの歌とちがって(原文は)一行書きだけど、
五・七・五、七・七のリズムで、読んでみて!

 傷ついたほうが偉いと思ってる
 人はあっちへ行って下さい

……石川くん、
あっちへ行けって言われてますよ、
17歳の女の子に>

(註*加藤千恵・若手の短歌作家。けっこう本も出ている)

これは痛い。痛いなぁ、石川くん。時代というものもあると思う。自虐的なものがかっこよかったっていう。ただ自虐的だと、どんどん不幸になっていくばかりだ。結核とか、心中とか、生活破綻とか、、、それがかっこよかった時代はあるけど・・・。でも、どうよ。今や、うざいといわれても仕方ないのでは? ちょっと前まで「暗い」だったのが、今や「うざい」。近くにいられるのも迷惑という・・・。

真面目が悪いと言っているわけじゃなくて真面目にはまりすぎて深刻になり、苦痛に陶酔さえしてるみたいな状態がナルシスティックで「キモイ」と、今の女の子なら言うだろうし、ぼくならそれが続くと鬱になって死にたくなる。

道化師グリマルディーは、自分の絶望をあえて演じ切って観客に喝采を浴び、不幸さが売り物の太宰治や石川啄木は(いや、本当は人間観察が深い、本質をついているとか描写がすばらしいとかほめたい気持もあるんだよ、ごめんね)相対化してみれば、かっこうのギャグのネタになってしまう。

ちょっと座標軸をずらして次元を変えたり、人ごとだと思ってみる。そうすると、同じ出来事でも急に違って見えてくることがあったりもする。自分の尻尾にじゃれついてる子猫は真剣かもしれないけど、はたから見てると馬鹿だなーと思える・・・? あんまり例がよくないかな。

今のぼくは、ぶざまに生きるより、美しく死んだほうがいいとは思えない。ぶざまなところが、かえって楽しく生きるツボだったりする。そりゃ隠したいことの数々はあるのでここでもあんまり恥ずかしいことは書かないでいる。御承知下さい。

「死に損ないのサバイバル術」は、道化を使って不幸というイメージににはまり込んだ自分自身に何度も何度も足払いをくらわす。オリンピックの日本柔道のように、あきらめず、ねばり腰が必要な精神的な作業なんだ。

あるときにはぎりぎりのブラック・ジョークをとばし、そうして誤解されたり孤独に陥りながらも、注意深く一瞬一瞬を見逃さないで、現実や妄想の仕掛けてくる罠の裏をかきまくる。頑固な思い込みを滑稽の技でひっくり返してしまう。できれば口笛吹きながら。

いったん笑いが起これば、腹筋が振動し、固まった空気はほどけ、切り離されていた人や物が一瞬にしてつながってしまう。・・・そんな魔法。

後編では、クラウニングのワークショップの風景を描きながら、どんなことが起こりつつありうるのか、日常で、職場で、いろんな人との間で。・・・続きます。       (つづく)


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